2010年 03月 22日
何日間か気温の高い日が続き、一気に春が駆け足でやってきたような日だった。 出かけなければならない用事があって地下鉄に乗ると、ラッシュアワーをとっくに過ぎ、座席の空きが目立つ車内はどことなくのんびりとした空気がただよっていた。私はゆったりと座席に腰を下ろすと目を閉じた。 次の駅で、ドアからさーと冷たい風が流れ込んできて、同時にざわざわとあたりの空気が動いた。私は目を開け周囲を眺めた。 私の座った座席の向かい側に、乳母車が置かれていた。 私はそのとき初めて、自分が車椅子や乳母車が置ける優先席近くにいることに気づいた。 乳母車には5,6ヶ月かと思われる赤ちゃんが乗っていた。 そして、母親は乳母車に背を向け、ドアにもたれかかったままケータイを見ていた。「ヤンママ」というのだろうか、まだ十代ではないかと思われる若い女性が、乳母車を押すには不釣合いなハイヒールを履き、ミニスカートの派手な服装に長い付けまつげをつけていた。それはまるで週刊誌から抜け出てきたアイドルのようでさえあった。 突然赤ちゃんがしくしくと泣き始めた。 母親は振り向きもせず、ケータイから目を離さない。赤ちゃんの泣き声はだんだん大きくなり、乗り合わせたほとんどの人が乳母車のほうを見た。 人々の視線は何もしない母親に注がれ、車両の中には瞬く間にあからさまな非難めいたとげとげしい空気がかもし出されていった。 そのとき、車両の中をひらひらと動く、何かちいさな生きものがあった。 あっと誰もが思った。黄色い蝶が一羽、ゆっくり、ゆっくりと踊るように、舞うように飛んでいた。 蝶は乳母車の上を飛び、あかちゃんの手のすぐそばに降りた。赤ちゃんは泣くのを忘れ、びっくりしたように蝶を眺めた。 あの時間はどれくらいの長さだったのだろう、ほんの数秒のようにも思われるし、ずっとずっと長い時間のようにも思われる。 しばらくすると、蝶は、赤ちゃんに挨拶を済ませましたよとでもいうようにその場を離れ、またゆるゆるとゆっくり車内を舞った。 蝶が去ると赤ちゃんはまた思い出したように泣き出した。 それでも母親はなにもせず、赤ちゃんに関心も示さなかった。 蝶は少し離れたところの座席に座っている、たくましそうな青年の前にゆき、ジーンズのひざに止まった。多くの視線がそのひざに注がれた。青年はすこしからだを前にかがめ、ゆっくりと、そうっと、大きな両手で蝶を挟み、そして静かに蝶を入れたままの手を大事そうに持って立ち上がった。 何をするのだろう・・・居合わせたすべての人が固唾を呑んで見守った。 青年は乳母車のところに行きひざまずくと、赤ちゃんの目を見つめた。赤ちゃんは泣くのをやめ、青年をみつめた。青年はゆっくりと手を広げた。中には蝶がいた。赤ちゃんは魔法を見るかのようにその蝶を見つめた。蝶は飛び去ることもなく、青年の手の中でじっとしていた。 若い母親はそのときになってはじめて乳母車に寄り添い、赤ちゃんと一緒に蝶を見つめた。 次の駅が近づくアナウンスが流れた。青年は蝶を乳母車の縁にそっと移すと立ち上がった。 自分の席に行き、荷物を持つと、青年はまた乳母車に戻り、若い母親に向かって話しかけた。 「この子、大事に育ててあげんしゃい。どんな子でも、子どもは母親が大好きなんやから・・・それにこげんかわいか子はそうそうはおらんとよ・・・」 母親ははっとしたように青年を見つめた。 電車がホームに入り、ドアが開くと青年はちらっと赤ちゃんを見てから降りていった。その背に向かって母親はぺこんと頭を下げた。 あとから知ったことだが、その年に始めてみる蝶の事を「初蝶」というらしい。広辞苑をひくと初蝶として「春になってはじめてみる蝶」とある。 この路線の地下鉄は、車両基地がまだまだ田園の残る平野の一角にあるので、車両基地に入り、車掌さんが出入りするとき、生まれたばかりの赤ちゃん蝶ちょうが紛れ込んでしまったのだろう。 「初蝶」は、さわやかな出来事とさわやかな思いをもたらしてくれた。きっとあの若い母親にも「初蝶」はすばらしい何かをプレゼントしてくれたに違いない。 春浅い日、「初蝶」にまつわるうれしい出来事だった。
by mimishimizu3
| 2010-03-22 08:32
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