2012年 04月 14日
「桜の樹の下には」・・・
     「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
      これは信じていいことなんだよ。
      何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲く
      なんて信じられないことじゃないか。
      俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不
      安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た
      桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」

こんなぎょっとする、恐ろしいことをサラッと書いたのは、昭和7年、31歳の若さで、肺結核で死んだ梶井基次郎である。

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私が梶井基次郎の作品にはじめて触れたのは、高校の国語の教科書に載っていた「檸檬」であった。
梶井の代表作とされる「檸檬は」、しかし、高校生の私にとっては、何度読んでもよくわからない小説というか、散文詩であった。
難しい言葉も多かった。舞台となった京都にも私はそのころまだ行ったこともなかった。レモンを置いてくる、「丸善」という書店についても私には何の知識もなかった。

今、読み返してみても、「檸檬」は結構難しい作品といえるだろう。
作者の言わんとするところ、一種独特な感性を持ったこの文章を完全に理解するには、読み手の側の相当高度な感受性が必要なのではあるまいか。
ただ、高校生の私が、この作品の中で、リアリティを持って理解できたところが1箇所だがある。
それは結核のため微熱を持った主人公が、冷たいレモンを手に握り締め、その冷ややかな感触を楽しむ、というところであった。私は、熱を帯びた男の手の中で、レモンが、その熱を吸い取り、だんだんとぐったりし、ぐにゃっとしていくさまを思い浮かべた。
その感触をもったまま、図書館で借りてきた梶井基次郎の本の中にあった、「桜の樹の下には」は、だから、妙にレモンがぐったりしていくさまと、桜の樹下に埋められた死体が腐ってゆくさまが私の中で呼応したのかもしれない

私には、たくさんの木がお互い咲き誇っている桜並木などでは、梶井基次郎を思い出すことはなかった。

しかし・・・

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「一本桜」と呼ばれるこの桜を遠くから眺めたとき、その美しさにあっと息を呑み、思わず駆け寄り、近くで見上げ、呆然となった。そして次の瞬間、私はふと桜の根元を見詰め、そして反射的に「桜の樹の下には」という梶井基次郎の文章を思い出し、そして背筋がぞくぞっくと寒くなった・・・・

樹齢300年といわれるこの「一本桜」は長い年月、誰からも注目もされず、風雪に耐え、生き延びてきたのだろう。
そしてあるとき、村人がその美しさに気づいたのだろう。
美しく成長した「一本桜」を見上げ、村人は何をおもったのだろうか・・・

一本桜は妖しい美しさをもって村人を魅了したに違いない。
単に「きれい」「美しい」といって済ましてしまうには、物足りない何かがこの桜にはある。
人の心をとろけさせてしまうような、今まで見たこともない異次元の世界に引き込まれていってしまうような・・・
そんな「妖しさ」をもった「一本桜」だ。

梶井が言うように本当の「死体」が埋まっているとは思わない。
けれど「死体」が埋まっていて、その養分を吸い取って桜がこんなに「妖しく」美しく咲いている、といわれても、ふっとそれを信じてしまいたくなる何かがこの桜にはあるような気がする。

「桜の樹の下には」は梶井基次郎という繊細な、鋭敏な神経の持ち主によって初めて言語化され、作品化された。そしてそれは、その後多くの人の心に、「うーーん」とうならせるものを、ぽとりと落としていった。

一人の熱を帯びた作家の感性の大きさを、今、私はしみじみと思っている。

by mimishimizu3 | 2012-04-14 08:45 | エッセイ


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