2012年 04月 21日
桜散るころ
 清潔感あふれる明るい病院の待合室は、静謐な空気が漂い、クラシック音楽がかすかに流れていた。
最近は予約制が確立されたせいだろう、待合室がごった返すということはなく、いつも数人が電光掲示板に示される自分の番号をおとなしく待っている。

 私も椅子に腰掛け、ぼんやりと順番を待っていた。
 私の前には、私より年長の、多分80代と思われる、こざっぱりとした身なりの、横顔が上品な女性がひとり、杖をわきにおいて座っていた。
 電光掲示板が変わり、その女性の番号が示されたのだろうか、杖を突いてゆっくりと立ち上がると、ふと後ろを振り返った。私の目と女性の目がきりっと合った。
 彼女はふと寂しそうな笑みを浮かべると、なぜか私に会釈した。私も釣られてあわてて会釈をかえした。
たったそれだけのことであった。いや、それだけのことであるはずだった・・・

 ほどなく、診察室から女性が戻ってきたとき、その顔はさっきよりさらに寂しそうだった。目元が潤んでいるようにも見えた。私は無意識のうちに近寄り、彼女に手を添えた。
しかし、その時、電光掲示板が変わり、私の診察の番号を示していた。私は、彼女から手を離し、「お気をつけて・・・」というのが精一杯だった。
f0103667_823274.jpg


 私の定期健診は簡単に済み、いつもの薬の処方箋が出されたが、その日、私は月1回の、ある定期的な点滴を受けることになった。約1時間もかかるその点滴は、処置室で行われ、私はベッドに横になって目をつぶっていた。点滴が終わり、私はロビーに向かった。
 その病院は建て替えられたばかりで、窓が大きく、通路と一体となったロビーにはおしゃれなソファーやテーブルまで置いてある。私を迎えに来てくれる家族との約束の場所もそのロビーであった。
 そこに、私は先ほどの女性が一人ぽつんと座っているのを見た。私が点滴を受けている約1時間の間、彼女はそこにいたのだろうか・・・私は吸い寄せられるように、そばに座った。彼女はほっとしたように、くちもとをほころばせた。

 窓の外には、桜が揺れていた。盛りはもうとっくに過ぎ、少しの風にも、はらはらと花びらが舞っていた。
 「もう、桜もおわりですね・・」彼女は静かに言った。
 「そうですねえ・・」私も静かに返した。短い命だ。もしかしたら、期せずして、二人とも同じ思いを感じていたのかもしれない。
 私は、1時間もの間、一人でそこに座っていたのか、という喉まででかかった質問をかろうじて飲み込んだ。
しばらく沈黙が続いた。
 彼女は、ふと言いよどむように、口ごもった。そして思い切って話すように私にいった。
 「あなた、四苦八苦って言葉、ごぞんじですよね」
 私はびっくりした。いきなり、何を言い出すのだろう。私はてっきり、身の上話でも聞かされると思っていたのに・・・・
 
 「四苦八苦ですか・・・たしか・・・」
 私は以前友人とそんな話をしたことを思い出した。確か、仏教から出た言葉ではなかったか。
 「たしか・・・ショウ、ロウ、・・・」と私が言い出すと、女性はその言葉を引き取るように言った。
 「そう、生、老、病、死ですよね。生きることは苦しい、老いることは苦しい、病気になることは苦しい、そして死ぬことはもっと苦しい・・・私は、老いて、病気になって・・・生きているってつらいですね。」
 女性は目を落とし、うつむいた。でも、そんなことを言われれば、私だって《老いて》《病んで》いるのだ。病院に来る人は病んでいるから来るのだ。《死》についてだって、私の脳裏にはいつもあると言っても過言ではない。いつ、どこで、どんな《死》を迎えるかは誰にもわからないが、《死》はいつか、確実にやってくる。
 「四苦」は人間、皆背負っているのだ。
 私が黙り込むと、女性はまた静かに言った。
 「ごめんなさい。いきなりこんなこと言って・・・驚かれたでしょう。私、ずっと誰かに話したくって・・・最近、誰とも話していないので・・・」

 そのとき、私の目の隅に、迎えに来てくれた家族の姿が入った。私はちょっと片手を上げ合図をした。
 それを見ていた女性が言った。
 「お迎えですか・・」
 私がかすかにうなずくと、女性は一瞬躊躇したようだったが、小さな声でつぶやくように言った。
 「私も、ムスメがここに迎えに来てくれるんです」
 それを聞いて、私はほっとした。
 「そうですか、それはよかった。ではまたいつかお会いしましょう」
 私はそういって立ち上がった。点滴のあとのけだるさもあった。早く家に帰りたかった。

 会計を済ませ、病院の玄関を出ようとしたとき、さっと風にあおられた桜が私の顔に当たった。
桜散る・・・
 薄紅色の小さな花びらを私は見詰めた。桜は短い命を生き切って、いさぎよく散ってゆく。その舞姿のなんと美しいことか!
 帰りの車に乗り込むと、病院の周囲のたくさんの大きな桜の樹が、あたかも争ってでもいるかのように散り急いでいた。桜吹雪・・・見とれていた私は、ふと雷にでも打たれたように「あっ」と思った。

 あの女性は「ムスメ迎えに来てくれるんです」といったけれど・・・
 それは、ほんとうのことだったのだろうか・・・最近、誰とも話していない、といったのは何だったのか・・・
 もしかして、私を安心させるための方便ではなかったか・・・

 散り行く桜を見ながら、私は「四苦八苦」と言う言葉を反芻した。
 生、老、病、死・・しかし・・・
 「四苦」のほかに人間にはさらに「弧」という苦しみがあるのではないか・・・
 あの女性は、もしかしたら一人で病院に来て、一人で診察を受け、一人で帰っていくのかもしれない、私はふとそんな気がした。

 2500年前のお釈迦様が生きていた時代にはあるいはなかったかもしれない「孤独」という苦しみが、今の日本には存在している。
 私は女性の寂しげな表情を思い浮かべた。
 そして、いや、そんなことはない、と、自分の考えを強く否定した。
 あの女性はたしかに娘さんがいて、病院に迎えに来てくれるのだ。だから、1時間以上もロビーで待っていたのだ・・・何らかの理由があって、最近その娘さんとも意思疎通ができなくなっていたかもしれないが、でも、母と娘、本来は仲むつまじいに違いない・・・
 私は強いてそう思った。

 桜吹雪が私の乗った車を追い越して行った。
f0103667_8254259.jpg


by mimishimizu3 | 2012-04-21 08:25 | エッセイ


<< 花降る街  花みずき通り      バブルの落とし子 ふれあい橋 >>