2012年 05月 08日
「生きる」  木漏れ日によせて
 初めて訪れたその日本庭園は、さわやかな5月の風が吹きぬけ、刻が静かに流れているようだった。
 木々の新緑はまばゆいまでに輝き、新しい季節と新しい命の歌を心ゆくまでうたっていた。
 私は小道を歩いた。木漏れ日が体全体にふりそそがれ、私をやさしくつつんでくれた。目をつぶった。明るい透明な世界に自分が立っていることを実感した。
 突然、私の頭の中で、ビバルディの有名な「四季」の第一楽章、「春」のメロディが高らかに鳴り響いた。
 それは清新な命の喜びの歌であった。

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 そうしているうち、私はふと、ここには前にも来たことがある、私はそのときもこうして木漏れ日の降り注ぐ小道に立ち、今と全く同じような体験をしたことがある!と思った。
 この場所はたしかに見覚えがあるのだ。私はいつだったかやはりこの場所に立ち、こうして木漏れ日を浴びながら、頭の中でなるビバルディのメロディをきいたのだ、それは間違いない!

 しかし、その庭園を私が訪れるのはたしかに今回が初めてのはずであった・・・

 「規視化」というのであろうか、初めてのところなのに来た事がある、体験したことがある、と感じてしまうこの奇妙は感覚、誰もが一度や二度は体験するといわれている現象に私は困惑して、その場にたたずんだ。

 しかし、その奇妙な現象の原因は、割合と早く解決された。

 木漏れ日の庭に佇んでからそれほど立たない日、私は付けっぱなしにしていたラジオから、昨年の3:11の被災者に送る詩が朗読されることを知った。私は音量を上げ、聞き耳をたてた。
 谷川俊太郎「生きる」の詩を俳優の佐藤浩市氏が朗読するものであった。
 はじめのところを聞いて、私は「これだ・・!」と自分で自分のひざを打った。

      
       生きる   
                                      谷川俊太郎
     生きているということ
     いま生きているということ
     それはのどがかわくということ
     木漏れ日がまぶしいということ
     ふっと或るメロディを思い出すということ
     くしゃみをすること
     あなたと手をつなぐこと
       ・
       ・ 
       ・
 ずっと以前、この詩を読んだとき、私は木漏れ日の道を思い描き、そこでビバルディの音楽を思い描いたのだろう。それが「規視感」となって私に残ってしまったのだろう。
 佐藤浩市氏の朗読は抑制の聞いた落ち着いた声で、しみじみと心に訴えかけてきた。

 私は改めて谷川俊太郎の「生きる」という詩を読んだ。

     生きているということ
     いま生きているということ
     いま遠くで犬が吠えるということ
     いま地球が廻っているということ
     いまどこかで産声があがるということ
     いまどこかで兵士が傷つくということ
     いまぶらんこがゆれているということ

     いまいまがすぎてゆくこと

 初めてこの詩を読んだとき、正直に言えば、私はただ「ふーん」と思っただけであった。余りにも当たり前、余りに平易・・・

 しかし、今、「命」と向き合う日々を送る中で読み返してみると、この詩のもつ奥深さに始めて気が付いたように思う。
 当たり前のことがなんといとおしく、なんと大切なことか、そして当たり前のことがなんと貴重なことであることか!!

「 生きる」は次のフレーズで終わる。

     生きているということ
     いま生きてるということ
     鳥ははばたくということ
     海はとどろくということ
     かたつむりははうということ
     人は愛するということ

     あなたの手のぬくみ
     いのちということ

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 私はあの木漏れ日の庭園を思った。静かなときが流れていたあの道、あの庭園にたっていたとき、私はたしかに「生きて」いた。暖かな人のぬくもりも身近に感じつつ、私は「あたりまえ」の中にいた。「生きる」ということ、それは木漏れ日がまぶしいこと、ふっとあるメロディを思い出すこと・・・
 木漏れ日の庭園はわたくしに「生きる」喜びをあらためて教えてくれた。


     お知らせ
今日から、2週間の予定で「別荘」(笑)に行ってきます
その別荘は、時により悪さをするモンスターが出没するといううわさもあるので、モンスターにつかまらないよう、十分注意して、「別荘生活」を楽しんできますね(笑)

by mimishimizu3 | 2012-05-08 08:13 | エッセイ


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