2007年 07月 18日
ハスの花が開くとき、ポンと音がする、と聞いたことがある。本当だろうか。 巷間ではそう言いはる人もいるが、生物学者はありえないことと、はっきり否定しているそうである。 あるところでその話をしらた、たいそう盛り上がった。そして、何事にも優秀なAさんが言った。 「もし、ハスが咲くとき音がするんだったら、これだけ性能のいいマイクも出ているんだし、NHKなんかが、ほっておくわけないでしょ。録音して、放送するに決まっているわよ。そんなこと聞いたことがないでしょう。ってことは、音なんかしないってことよ。」 それでも、ハスが咲くとき音がするとしたら、とてもステキではないか・・・私がそういうと 「それならあなた、たしかめていらっしゃいよ」 親友というべきか、悪友というべきか、その言葉に乗せられ、私は自分の耳で確かめてみるはめになった。 ある朝、私は6時前に起き、ハスが一面に咲いている、私の好きな、よく歩くお濠端に行く事にした。 外に出ると、空には薄い紫の雲がたなびいていた。それは見る見るうちに光を増していき、明るい紫から徐々に薄くれない色になっていった。夜と昼のせめぎあいの瞬間である。が、あっという間もなく、赤に飲み込まれていった。 お濠に着くころ、空は一面濃い茜色にそまっていた。 街はまだ眠りから醒めていない。昼間、人がせわしく行きかう道も、見慣れたビルもよそよそしく静まりかえっている。いつも歩くお濠なのに、そこは全く初めての、見慣れない異次元の世界のように思われた。 それでも、私は物好きな自分に苦笑しつつお濠端に降りていった。こんな時間にこんなところにくる人はいないだろう、どこかでそう決め込んでいた。 ところがである。先客がいた。 品のいい70代後半か80台前半と思われる老夫婦がベンチに座ってじっとハスを見ていたのだ。 どちらからともなく、自然に挨拶が出た。山に登る人は、みな挨拶を交わすというが、非日常に入ると、人はふっと忘れかけていた何かを思い出し、優しくなるのだろうか・・・ ハスはもう開いていた。つぼみのままのものもチラホラ点在していたが、それは開花にはまだ間がありそうな硬さに見えた。 「ちょうど開く時間に遭遇したかったのに」・・・私が独り言のようにつぶやくと、 「それなら、もっと早くいらっしゃらないと・・」と夫人が言った。 「ほんとに夜が明けそめるころ開いていくみたいですよ。私達も、それは見たことないんですよね。」 夫人はそういって静かに隣の連れを見た。夫と思しき人は、ニコニコと柔らかな微笑を返した。それは見ているだけでこちらの心を暖かくしてくるような、やさしさに溢れていた。 その時、一羽のかもがすぐ近くにきた。 「あら、かもさん・・」 夫人がいった。 「ヨシコさん、これは、昨日と同じかもかもしれませんね」 「ヨシコさんを覚えているんですよ」 「ワタルさんだって覚えられていますよ。」 夫人は上品にホホホと笑った。私もつられて楽しく微笑んだ。 ヨシコさんとワタルさんはかわいくって仕方がないらしく、手を差し伸べたり話しかけたりした。それを見ながら、しかし、私は少々奇異な感にとらわれていった。 この年齢の夫婦がお互いをさんづけで呼び合っている。二人はずっとそうしてきたのだろうか。 私は思い切って聞いてみた。 「初めからお互いをさん付けで呼び合っていらっしゃるのですか」 夫人が答えた。 「そうですよ。知り合ってからずっと、さん付けで呼びましょう、と決めたんです」 「私も前の妻は呼び捨てにしていましたけどね。」 私はハッとした。それではこの二人は・・・。 すかさずヨシコさんが言った。 「私も死んだ夫からはいつもオイって呼ばれていました。私はいつも心の中で、オイって名前じゃない、私にはヨシコって名前があるんだって思っていました」 「だからわたしたち、今度はさん付けで呼び合おうって話したんです。もう人生の残り時間、少しでしょう。その少ない時間は気持ちよく過ごしたいじゃありませんか」 私は静かな感動に包まれた。なんと言っていいのか、その場にふさわしい言葉が見つからなかった。 突然ワタルさんが私に向かって話しかけてきた。 「あなた、ハスの花言葉って知っていますか」 私はえっと思った。考えたこともなかった。 「ハスの花言葉はね、あなたを愛しています、っていうんです」 「もう一つ、過ぎ去った愛っていうのもあるますけどね」 ワタルさんはさらに続けた。 「普通の花はまず花が咲いてから実をつけるでしょう。でも、ハスはちがうんですよ。ハスはほら見て御覧なさい。花をつけると同時に実を中に詰めた黄色い苞が出てくるでしょう。だから、ハスは過去、現在、未来を同時に体現しているっていわれているんです。ヨシコさんと私もいま、過去、現在、未来を一緒にして生きているんです。今が全てなんです。」 あたりはすっかり明るくなり、お濠の上の道はいつもの日常が戻ってきていた。車が行きかい、人がせわしく歩き、自転車がまわり・・・・ ワタルさんが言った。 「私たち、あそこのモーニングサービスで、いつも朝食をたべるんですよ。」 そういって、瀟洒なコーヒーショップがある方角を指差した。 「そろそろ開くかな。ヨシコさん、行きましょうか」 二人はゆっくりと腰をあげた。私は丁寧に挨拶をした。何故か心からありがとうといいたい思いだった。ハスが咲くとき音がするかどうか、それは結局わからずじまいだったけれど、そんなことより大事な何かを教えてもらったような気がした。 街の雑踏に消えていく二人を私は見えなくなるまで見送った。 清楚で、透明感のあるハスとヨシコさんがわたしの中でオーバーラップしていった。
by mimishimizu3
| 2007-07-18 17:06
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