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2012年 06月 13日
大地の二人
 家の近くの小さな医院で、ある点滴をしてもらうこととなった。

 待合室に入ると、すでに何人もの人が椅子にすわり、無表情のまま、黙って虚空を見詰めていた。重苦しい空気があたりを支配していた。
 そんな時、どやどやっとにぎやかな声とともに高齢の女性が二人、いっしょに入ってきた。
 どうやらこの先にある田園地帯からやってきた、農家のおばさんのようである。
 一人は腰が60度近く曲がり杖を付いていた。もう一人はやはり日に焼けた厚い皮膚の顔に深いしわを刻み、背中はせむしのように湾曲していた。
 二人は「よっこらしょ」と同時に声を出すと椅子に座り、あたりをじろじろとみまわした。そして隣の人に「飴いら んとね?」と声をかけた。
 声をかけられた高齢の男性はいかにも迷惑そうに「いらんとよ」とぶっきらぼうに答え、そっぽを向いた。
 待合室の空気ががらっと変わっていくのがよくわかった。

 私はすぐに呼ばれ、待合室から伸びている廊下をとおり、つきあたりの「処置室」に案内された。そこは簡単なベッドが幾つか並び、移動式の、これも簡単な間仕切りのカーテンで仕切られていた。

 私は、窓際のベッドに休むよう言われた。ベッドからは庭の木々も見え、空を行く雲も見えた。
 手に点滴の管が通され、私はぼんやりと窓の外を見ていた。
 しかし、私がぼんやりと雲を眺めているまもなく、隣のベッドがにぎやかになった。
 どうやらさっきの農家の女性が私の隣のベッドに入ったらしい。
 「よっこらしょ!」という元気な声が聞こえ、同時にもう一つ向こうのベッドにも、もう一人の女性が入ったらしく、「このベッド高かねえ・・」という明るい声が聞こえた。

 私は目を瞑った。否応なく、隣のベッドもその向こうのベッドの声も筒抜けに聞こえてくる。正直のところ、はじめは参ったな、とおもった。
 静かに空行く雲でも眺めながら1時間の点滴をやり過ごすつもりだったのに、これではにぎやかなおしゃべりにつき合わさざるを得ないだろう・・・

 しかし、聞くともなく聞こえてくるその元気な農家の女性たちのおしゃべりは決していやなものではないということがすぐにわかった。自分が育てている野菜の話し、虫の話し、花の名前の話し・・・それらはすがすがしく、いつの間にか私は聞き耳を立てていた。

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 そして、話しは佳境に入っていった。

 「それはそうと、あんたくさ、きのう娘さんの車でどっかいかんしゃったろうが、どこにいかんしゃったとね?」
 「ああ、ドライブったいね。ムスメの車で天神ばいったとよ」
 「天神・・・よかねえ・・・して、天神でなんばしごしゃったと?」
 「そしゃあ、あんたくさ、天神ばいったら、《ショッピング》だろうが・・」

 私はフフフ・・と笑い出しそうになった。
 文字だけでは絶対に伝えることはできないが、彼女は《ショッピング》の箇所を、あたかもトランポリンをするように、《ショ》のところをゆっくりとそれでも力を込めていってから、《ピング》のところを高く空にでも放り上げるようにアクセントをつけいったのだ。
 それはまるで生まれたはじめて《ショッピング》をする子どもの楽しさとうれしさが凝縮されているかのようないいかたであった。
 これはまさに漫才ではないか、期せずして、この二人は漫才をしている・・・そして、話しはいよいよ大団円、落語でいえば、「オチ」の部分に入っていった。

 「ショッピングねえ、よかねえ・・して、なんばこうたと?」
 「そらあんたくさ、内緒ったい」
 「こすかあ・・!・・・」

 そこまで二人の会話が弾んだとき、その会話が聞こえていた看護師や事務の人や付き添いの人などみながいっせいにハハハ・・・と声を出して笑い出した。
 私も思わず引き込まれて笑ってしまった。一陣のさわやかな風が吹き抜けていった。

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 なぜ、「内緒ったい」「こすかあ・・」がそれほどおかしいのか、それは福岡以外の人には少々説明が必要かもしれない。

 福岡に長谷川法世さんという漫画化がおられる。その方がご自身の実写と、長谷川さんが書かれた漫画のキャラクターとで、博多の銘菓のCMにでておられるのだ。評判のいいCMなのだろう、もう何年も続いているCMである。それは博多の守り神、櫛田神社で長谷川さんと漫画のキャラクターがお祈りをし、「法世さん、なんばおいのりしたとね?」というキャラクターに長谷川さんが「そりゃあ、ないしょったい」という。すると漫画の男の子が「こすかあ・・・」というのである。そこで長谷川さんが「まあ・・この〇〇でもたべんね」といって銘菓を差し出すのだ。
 つまりこの農家の二人は最期のオチをこのCMそのまま使ったことになる。
 それだけでも、かなりのウイットとユーモアセンスがなければできないことではあるまいか。
 このお二人は、頭の回転も速く、笑のコツを心得ている。

 大地を耕し、大地とともに生き、大地を愛し大地から愛されてきた二人、おそらく、「自然」に逆らう愚かしさを骨身を持って知り、「自然」を受け入れ、「自然」ともに生きてこられたにちがいない。顔の深い皺はその証でもあろうが、二人の女性のなんと屈託なく、底抜けに明るいことか!
 腰が曲がり、背中がまがり、医院に来るようになったということは、どこかからだの不具合が生じたからにちがいない。しかし、そんなことも、この二人にとっては「自然」の成り行きなのかもしれない。愚痴ることもなく、大騒ぎすることもなく、淡々と自分の「運命」を当たり前の「自然」として受容しておられるのにちがいない。

 私は、病気になってからの自分を省みた。めそめそしたこともあった。何で私が?・・と天を責めたこともあった。
 でも、そんなことがなんになろう。
 この二人のように、病気のことなど忘れ、からっと明るく「自然体」で生きるのが一番なのかもしれない。

 窓の外は初夏のさわやかな空気がながれていた。
 私は声なき声で二人に「ありがとう!」といってベッドを離れた。

by mimishimizu3 | 2012-06-13 12:01 | エッセイ
2012年 05月 08日
「生きる」  木漏れ日によせて
 初めて訪れたその日本庭園は、さわやかな5月の風が吹きぬけ、刻が静かに流れているようだった。
 木々の新緑はまばゆいまでに輝き、新しい季節と新しい命の歌を心ゆくまでうたっていた。
 私は小道を歩いた。木漏れ日が体全体にふりそそがれ、私をやさしくつつんでくれた。目をつぶった。明るい透明な世界に自分が立っていることを実感した。
 突然、私の頭の中で、ビバルディの有名な「四季」の第一楽章、「春」のメロディが高らかに鳴り響いた。
 それは清新な命の喜びの歌であった。

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 そうしているうち、私はふと、ここには前にも来たことがある、私はそのときもこうして木漏れ日の降り注ぐ小道に立ち、今と全く同じような体験をしたことがある!と思った。
 この場所はたしかに見覚えがあるのだ。私はいつだったかやはりこの場所に立ち、こうして木漏れ日を浴びながら、頭の中でなるビバルディのメロディをきいたのだ、それは間違いない!

 しかし、その庭園を私が訪れるのはたしかに今回が初めてのはずであった・・・

 「規視化」というのであろうか、初めてのところなのに来た事がある、体験したことがある、と感じてしまうこの奇妙は感覚、誰もが一度や二度は体験するといわれている現象に私は困惑して、その場にたたずんだ。

 しかし、その奇妙な現象の原因は、割合と早く解決された。

 木漏れ日の庭に佇んでからそれほど立たない日、私は付けっぱなしにしていたラジオから、昨年の3:11の被災者に送る詩が朗読されることを知った。私は音量を上げ、聞き耳をたてた。
 谷川俊太郎「生きる」の詩を俳優の佐藤浩市氏が朗読するものであった。
 はじめのところを聞いて、私は「これだ・・!」と自分で自分のひざを打った。

      
       生きる   
                                      谷川俊太郎
     生きているということ
     いま生きているということ
     それはのどがかわくということ
     木漏れ日がまぶしいということ
     ふっと或るメロディを思い出すということ
     くしゃみをすること
     あなたと手をつなぐこと
       ・
       ・ 
       ・
 ずっと以前、この詩を読んだとき、私は木漏れ日の道を思い描き、そこでビバルディの音楽を思い描いたのだろう。それが「規視感」となって私に残ってしまったのだろう。
 佐藤浩市氏の朗読は抑制の聞いた落ち着いた声で、しみじみと心に訴えかけてきた。

 私は改めて谷川俊太郎の「生きる」という詩を読んだ。

     生きているということ
     いま生きているということ
     いま遠くで犬が吠えるということ
     いま地球が廻っているということ
     いまどこかで産声があがるということ
     いまどこかで兵士が傷つくということ
     いまぶらんこがゆれているということ

     いまいまがすぎてゆくこと

 初めてこの詩を読んだとき、正直に言えば、私はただ「ふーん」と思っただけであった。余りにも当たり前、余りに平易・・・

 しかし、今、「命」と向き合う日々を送る中で読み返してみると、この詩のもつ奥深さに始めて気が付いたように思う。
 当たり前のことがなんといとおしく、なんと大切なことか、そして当たり前のことがなんと貴重なことであることか!!

「 生きる」は次のフレーズで終わる。

     生きているということ
     いま生きてるということ
     鳥ははばたくということ
     海はとどろくということ
     かたつむりははうということ
     人は愛するということ

     あなたの手のぬくみ
     いのちということ

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 私はあの木漏れ日の庭園を思った。静かなときが流れていたあの道、あの庭園にたっていたとき、私はたしかに「生きて」いた。暖かな人のぬくもりも身近に感じつつ、私は「あたりまえ」の中にいた。「生きる」ということ、それは木漏れ日がまぶしいこと、ふっとあるメロディを思い出すこと・・・
 木漏れ日の庭園はわたくしに「生きる」喜びをあらためて教えてくれた。


     お知らせ
今日から、2週間の予定で「別荘」(笑)に行ってきます
その別荘は、時により悪さをするモンスターが出没するといううわさもあるので、モンスターにつかまらないよう、十分注意して、「別荘生活」を楽しんできますね(笑)

by mimishimizu3 | 2012-05-08 08:13 | エッセイ
2012年 04月 21日
桜散るころ
 清潔感あふれる明るい病院の待合室は、静謐な空気が漂い、クラシック音楽がかすかに流れていた。
最近は予約制が確立されたせいだろう、待合室がごった返すということはなく、いつも数人が電光掲示板に示される自分の番号をおとなしく待っている。

 私も椅子に腰掛け、ぼんやりと順番を待っていた。
 私の前には、私より年長の、多分80代と思われる、こざっぱりとした身なりの、横顔が上品な女性がひとり、杖をわきにおいて座っていた。
 電光掲示板が変わり、その女性の番号が示されたのだろうか、杖を突いてゆっくりと立ち上がると、ふと後ろを振り返った。私の目と女性の目がきりっと合った。
 彼女はふと寂しそうな笑みを浮かべると、なぜか私に会釈した。私も釣られてあわてて会釈をかえした。
たったそれだけのことであった。いや、それだけのことであるはずだった・・・

 ほどなく、診察室から女性が戻ってきたとき、その顔はさっきよりさらに寂しそうだった。目元が潤んでいるようにも見えた。私は無意識のうちに近寄り、彼女に手を添えた。
しかし、その時、電光掲示板が変わり、私の診察の番号を示していた。私は、彼女から手を離し、「お気をつけて・・・」というのが精一杯だった。
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 私の定期健診は簡単に済み、いつもの薬の処方箋が出されたが、その日、私は月1回の、ある定期的な点滴を受けることになった。約1時間もかかるその点滴は、処置室で行われ、私はベッドに横になって目をつぶっていた。点滴が終わり、私はロビーに向かった。
 その病院は建て替えられたばかりで、窓が大きく、通路と一体となったロビーにはおしゃれなソファーやテーブルまで置いてある。私を迎えに来てくれる家族との約束の場所もそのロビーであった。
 そこに、私は先ほどの女性が一人ぽつんと座っているのを見た。私が点滴を受けている約1時間の間、彼女はそこにいたのだろうか・・・私は吸い寄せられるように、そばに座った。彼女はほっとしたように、くちもとをほころばせた。

 窓の外には、桜が揺れていた。盛りはもうとっくに過ぎ、少しの風にも、はらはらと花びらが舞っていた。
 「もう、桜もおわりですね・・」彼女は静かに言った。
 「そうですねえ・・」私も静かに返した。短い命だ。もしかしたら、期せずして、二人とも同じ思いを感じていたのかもしれない。
 私は、1時間もの間、一人でそこに座っていたのか、という喉まででかかった質問をかろうじて飲み込んだ。
しばらく沈黙が続いた。
 彼女は、ふと言いよどむように、口ごもった。そして思い切って話すように私にいった。
 「あなた、四苦八苦って言葉、ごぞんじですよね」
 私はびっくりした。いきなり、何を言い出すのだろう。私はてっきり、身の上話でも聞かされると思っていたのに・・・・
 
 「四苦八苦ですか・・・たしか・・・」
 私は以前友人とそんな話をしたことを思い出した。確か、仏教から出た言葉ではなかったか。
 「たしか・・・ショウ、ロウ、・・・」と私が言い出すと、女性はその言葉を引き取るように言った。
 「そう、生、老、病、死ですよね。生きることは苦しい、老いることは苦しい、病気になることは苦しい、そして死ぬことはもっと苦しい・・・私は、老いて、病気になって・・・生きているってつらいですね。」
 女性は目を落とし、うつむいた。でも、そんなことを言われれば、私だって《老いて》《病んで》いるのだ。病院に来る人は病んでいるから来るのだ。《死》についてだって、私の脳裏にはいつもあると言っても過言ではない。いつ、どこで、どんな《死》を迎えるかは誰にもわからないが、《死》はいつか、確実にやってくる。
 「四苦」は人間、皆背負っているのだ。
 私が黙り込むと、女性はまた静かに言った。
 「ごめんなさい。いきなりこんなこと言って・・・驚かれたでしょう。私、ずっと誰かに話したくって・・・最近、誰とも話していないので・・・」

 そのとき、私の目の隅に、迎えに来てくれた家族の姿が入った。私はちょっと片手を上げ合図をした。
 それを見ていた女性が言った。
 「お迎えですか・・」
 私がかすかにうなずくと、女性は一瞬躊躇したようだったが、小さな声でつぶやくように言った。
 「私も、ムスメがここに迎えに来てくれるんです」
 それを聞いて、私はほっとした。
 「そうですか、それはよかった。ではまたいつかお会いしましょう」
 私はそういって立ち上がった。点滴のあとのけだるさもあった。早く家に帰りたかった。

 会計を済ませ、病院の玄関を出ようとしたとき、さっと風にあおられた桜が私の顔に当たった。
桜散る・・・
 薄紅色の小さな花びらを私は見詰めた。桜は短い命を生き切って、いさぎよく散ってゆく。その舞姿のなんと美しいことか!
 帰りの車に乗り込むと、病院の周囲のたくさんの大きな桜の樹が、あたかも争ってでもいるかのように散り急いでいた。桜吹雪・・・見とれていた私は、ふと雷にでも打たれたように「あっ」と思った。

 あの女性は「ムスメ迎えに来てくれるんです」といったけれど・・・
 それは、ほんとうのことだったのだろうか・・・最近、誰とも話していない、といったのは何だったのか・・・
 もしかして、私を安心させるための方便ではなかったか・・・

 散り行く桜を見ながら、私は「四苦八苦」と言う言葉を反芻した。
 生、老、病、死・・しかし・・・
 「四苦」のほかに人間にはさらに「弧」という苦しみがあるのではないか・・・
 あの女性は、もしかしたら一人で病院に来て、一人で診察を受け、一人で帰っていくのかもしれない、私はふとそんな気がした。

 2500年前のお釈迦様が生きていた時代にはあるいはなかったかもしれない「孤独」という苦しみが、今の日本には存在している。
 私は女性の寂しげな表情を思い浮かべた。
 そして、いや、そんなことはない、と、自分の考えを強く否定した。
 あの女性はたしかに娘さんがいて、病院に迎えに来てくれるのだ。だから、1時間以上もロビーで待っていたのだ・・・何らかの理由があって、最近その娘さんとも意思疎通ができなくなっていたかもしれないが、でも、母と娘、本来は仲むつまじいに違いない・・・
 私は強いてそう思った。

 桜吹雪が私の乗った車を追い越して行った。
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by mimishimizu3 | 2012-04-21 08:25 | エッセイ
2012年 04月 14日
「桜の樹の下には」・・・
     「桜の樹の下には屍体(したい)が埋まっている!
      これは信じていいことなんだよ。
      何故(なぜ)って、桜の花があんなにも見事に咲く
      なんて信じられないことじゃないか。
      俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不
      安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た
      桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。」

こんなぎょっとする、恐ろしいことをサラッと書いたのは、昭和7年、31歳の若さで、肺結核で死んだ梶井基次郎である。

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私が梶井基次郎の作品にはじめて触れたのは、高校の国語の教科書に載っていた「檸檬」であった。
梶井の代表作とされる「檸檬は」、しかし、高校生の私にとっては、何度読んでもよくわからない小説というか、散文詩であった。
難しい言葉も多かった。舞台となった京都にも私はそのころまだ行ったこともなかった。レモンを置いてくる、「丸善」という書店についても私には何の知識もなかった。

今、読み返してみても、「檸檬」は結構難しい作品といえるだろう。
作者の言わんとするところ、一種独特な感性を持ったこの文章を完全に理解するには、読み手の側の相当高度な感受性が必要なのではあるまいか。
ただ、高校生の私が、この作品の中で、リアリティを持って理解できたところが1箇所だがある。
それは結核のため微熱を持った主人公が、冷たいレモンを手に握り締め、その冷ややかな感触を楽しむ、というところであった。私は、熱を帯びた男の手の中で、レモンが、その熱を吸い取り、だんだんとぐったりし、ぐにゃっとしていくさまを思い浮かべた。
その感触をもったまま、図書館で借りてきた梶井基次郎の本の中にあった、「桜の樹の下には」は、だから、妙にレモンがぐったりしていくさまと、桜の樹下に埋められた死体が腐ってゆくさまが私の中で呼応したのかもしれない

私には、たくさんの木がお互い咲き誇っている桜並木などでは、梶井基次郎を思い出すことはなかった。

しかし・・・

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「一本桜」と呼ばれるこの桜を遠くから眺めたとき、その美しさにあっと息を呑み、思わず駆け寄り、近くで見上げ、呆然となった。そして次の瞬間、私はふと桜の根元を見詰め、そして反射的に「桜の樹の下には」という梶井基次郎の文章を思い出し、そして背筋がぞくぞっくと寒くなった・・・・

樹齢300年といわれるこの「一本桜」は長い年月、誰からも注目もされず、風雪に耐え、生き延びてきたのだろう。
そしてあるとき、村人がその美しさに気づいたのだろう。
美しく成長した「一本桜」を見上げ、村人は何をおもったのだろうか・・・

一本桜は妖しい美しさをもって村人を魅了したに違いない。
単に「きれい」「美しい」といって済ましてしまうには、物足りない何かがこの桜にはある。
人の心をとろけさせてしまうような、今まで見たこともない異次元の世界に引き込まれていってしまうような・・・
そんな「妖しさ」をもった「一本桜」だ。

梶井が言うように本当の「死体」が埋まっているとは思わない。
けれど「死体」が埋まっていて、その養分を吸い取って桜がこんなに「妖しく」美しく咲いている、といわれても、ふっとそれを信じてしまいたくなる何かがこの桜にはあるような気がする。

「桜の樹の下には」は梶井基次郎という繊細な、鋭敏な神経の持ち主によって初めて言語化され、作品化された。そしてそれは、その後多くの人の心に、「うーーん」とうならせるものを、ぽとりと落としていった。

一人の熱を帯びた作家の感性の大きさを、今、私はしみじみと思っている。

by mimishimizu3 | 2012-04-14 08:45 | エッセイ
2012年 04月 01日
ミモザと「ミモザ館(やかた)」
春の陽がやわらかく降り注ぎ、桜もまるで恥らうかのように、一つ二つと咲き出した。

いつもの散歩コースの途中、ふと道を一本そらしてみようと思った。
まだまだ、苗木からやっと大きくなり始めた桜の木を見ながら、顔をあげたとたん、私は「あっ」と声を上げた。
9階建てのマンションの裏庭に、マンションと織り成すかのように、大きなミモザの木が満開の花をつけ、風に揺られていたのだ。

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どこか南国のイメージを髣髴とさせるその花を、私は感慨深く眺めた。

1960年代、私は東京で学生生活を送っていた。
そのころから映画好きだった私は、時間ができるとよく新宿の「名画座」に行った。
今で言う、ミニシアター、なのだろう、値段も安く、よく「往年の名画」を上映していた。
そんな中の一つに「ミモザ館」があった。

内容はすっかり忘れてしまったが、私が「ミモザ館」をいう題名を強烈に覚えていたのはわけがある。
それは「ミモザ」というのが、木であり、黄色い大きな花を咲かせるということをはじめて知ったからだ。
モノクロであったから、ミモザが黄色であることは映画ではわからなかったはずだ。多分セリフの一部にでも出てきたのだろうか、私の脳裏には風に揺れる大きなミモザの花が鮮やかに印象付けられた。

しかに、実際に私がミモザの花を目にしたのはそれからずっと、ずっと経ってからであった。
50年前、日本にはまだ「ミモザ」はそれほど多くは存在していなかったのではあるまいか・・・

映画を見てから数年の後、私はある要件を抱え、鎌倉の一軒の家を探していた。重い用件であった。私の心も重く、沈みがちな暗い気分をどうしようもなく、私ははじめて歩く道に戸惑っていた。
そのとき、誰の姿もない、、静かな、いかにも鎌倉、という感じの古い家の門に、大きなミモザの花がもたれかかるように咲いているのが目に飛び込んできた。
それは家の雰囲気と取り合わない、ちぐはぐな感じを私に与えた。しかし、私はその花をじっと眺めた。
生命力がありそうな、強そうなその花は、そのときの私にエールを送ってくれているような気がしてきた。
私は顔をあげ、道を歩き出した。目的の家を探し当てたとき、私はなんだか前向きになれるような気がしていた。

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ネットで調べてみると、「ミモザ館」は、1934年製作、フランスの名画の一つに数えられているようだ。
ストーリーはとっくに忘れても、題名は、きちんと覚えている・・・・私にとっては忘れられない映画である。

ミモザは最近、ところどころで見かけるようになった。
散歩の途中、ふと目にしたミモザ、思いもかけず、遠い昔を思い出させてくれた。

それにしても、私は「ミモザ館」を一人で見に行ったのだろうか、それとも誰かといっしょにいったのだろうか・・・
それは深い霧のにつつまれて、思い出すことはできない。

by mimishimizu3 | 2012-04-01 10:16 | エッセイ
2012年 03月 30日
春の心は・・・
春、花の咲く木はたくさん、たくさんあるのに、桜に対して日本人が持つ、この独特な、特殊な感情は一体どこから来るのでしょうか。

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  (3月29日の近所の桜)

春が近づくと、桜が気になりだします。
いつ咲くのか・・・今年は早いのか遅いのか・・・天候、気温、風・・・
桜の開花予想に、大げさに言えば日本中の人が、固唾を飲んで見守っているといってもいいでしょう。

これは何も今に始まったことではなく、1200年前の歌にも残されています。

    世の中に 絶えて桜の なかりせば

       春の心は  のどけからまし            在原業平   伊勢物語82段   
 
(この世の中に全く桜がなかったとしたら、春の人の心はのんびりしたものであったろうに・・・)

咲けば、1部咲きだ、5部咲きだ、といって愛で、お花見を楽しみ、散り行けば、それはそれで、「桜吹雪」として愛する・・・

伊勢物語はこの歌の続きとして次の歌を載せています。

    散ればこそ  いとど桜は  めでたけれ
 
       うき世になにか  久しかるべき        

(あっさり散るからこそ、桜はますます賞美に値するのだ、そもそもこの辛い世の中に、何が永続きするであろうか)

春の訪れを告げる桜は、色も形も大きさも、すべて日本人の感性にマッチするものなのでしょう。
そしてまた、「散り行く姿」の美しさも、ほかの花の追随を許さないほどの魅力があります。

今年また、桜の季節がやってきました。
今年、私は家の近くの桜を愛でに行きたいと思っています。

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(ヨウコウザクラは華やかですね)

by mimishimizu3 | 2012-03-30 11:10 | エッセイ
2012年 02月 17日
ドレナージ
庭に降り立つと、ふっと、やさしい香りが漂ってきた。
梅がほころび、やっと花を咲かせたのだ。
私はこの家に越してきて間もないころに植えた梅の木を見上げた。私よりずっと小さかった木が、30年以上たった今では見上げるような木になっている
白い優雅な花の香りをかいでいるうち、私は昨年秋、やはり木の香りに癒されたことを思い出した。

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そのとき、私は自分の体に何が起こっているのか、まったくわからなかった。
胸が苦しい、息が苦しい、痛い・・・急激な変化に私の意識も感情も付いていききれなかった。
痛みのあるときは横になって休んでいれば、少しは痛みも軽減されるのが普通なのに、あの時は、横になっても立っていても、座っていても、どこをどうしても痛みは取れなかった。
翌日、予約外であるにもかかわらす、かかりつけの大学病院に駆け込むと、すぐレントゲンを撮られ、そこから、あわただしく、即入院ということになった。

肺に水がたまり、その水も半端な量ではなく、レントゲンで肺がまったく見えないほど、おそらく4リットルから5リットルはあるだろうということだった。
病室に移されると、ばたばたと数人の男性が集まり、私はベッドに寝かされた。そのとき集まったのはその病院の専門の医師たちであった。一刻を争う緊急事態発生ということで急遽集められたということを、私は後から知った。
その時、これも後にわかったことだが、私の担当医となった一人の医師が興奮して、付き添っていた家族に言った。
「子どもさんはいるのですか、いるのだったら、すぐに連絡して来るように言ってください!」
それを聞いて、私は「えーー」と思った。
私はここで死ぬの?・・・・息子たちがあたふたと飛んできて、病院にかけつけ「おかあさーーん」といって私の手を握り、私はその手に握られてテレビドラマの主人公のように、目を閉じて死んでいくのか・・・・そんなシーンを頭に思い描いても、私にはどうもぴんとこなかった。

そして、たしかに私はそこでは死ななかった。

張り詰めた、緊張した空気が部屋いっぱいに流れていた。
が、あと数名の医師は沈着冷静だった。
ドレナージと呼ばれる重厚な機器がベッドの横に置かれ、一人の医師が言った。「これから、肺に管を通して、水を抜いていきますからね、ちょっと痛いけど、我慢してくださいね」
管がわき腹に持ってこられた。私は恐ろしくなり、「血が飛び出るのですか?」と聞いた。
医師は「ドラキュラの吸血鬼、ではありませんよ、水を吸い取る機械ですよ。血もちょっとは出ますけどね、だからちょっとは吸血の機械かな?・・・」
そのユーモアに、張り詰めていた部屋の空気がいっぺんに和らいだ。私もふっとほほが緩み、緊張も少しほぐれた。

私は部分麻酔をかけられた。全身麻酔ではなかったので、私は自分の横腹に管が挿されていくのをじっと見詰めた。
それは確かに「ドレナージ」というしっかりとした医療用機器ではあったのだが、自分のわき腹に管が挿されていくのはまるで電気ドリルでわき腹に穴を開けられているようだった。

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(ドレナージでつながれたところ)

こうして、私は機械と管でつながれ、ベッドに横たわった。そのときは、夢の中にいるようでで、管につながれるということがどういうことなのか、私にはまったくわかっていなかった。
自由がきかないということが、何を意味するのか・・・・
それを思い知るのは、数時間経ってからであった。

数時間後、麻酔も切れてきて痛みに耐えている中、私は尿意を催した。そしてあっと思った。
トイレはベッドの1メートル先にある。しかし、私は動くことができない。1メートル先のトイレに行くことができないのだ。
私はベッドの中からトイレのノブを見詰めた。たった1メートルの距離が、そのときの私には永遠に届くことのない、長い距離に思われた。
どうしよう・・・・
私は不安いっぱいになり、恐る恐るナースコールを押した。
「ハイ、どうしましました?」
すぐやってきた看護師に、私はささやくように言った。
「トイレに行きたいのですが・・・」
看護師は「ハイ、わかりました」あっさりそういうとそのまま部屋を出て行った。
しばらくして部屋に戻ってきた看護師は両手で大きな白いものを持っていた。
ポータブルトイレであった。

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 (ドレナージという器機、1リットルの水が入る容器があり、そこに血の混ざった赤い水がいっぱいにたまっているのがわかります。鼻には酸素吸入が付けられています)

「人間の基本的尊厳」という言葉がある。
人間が人から犯されたくない、基本的人権ともいえよう。周囲から存在を否定されたり、無視されることも人間としてはつらいことだ。
それと同じくらい、下の世話を人にしてもらわなければならないことも、「人間の基本的尊厳」を痛く傷つけられるものだということを、私は体験して初めて知った。
しかし、そんな贅沢は言っていられなかった。生理的現象の前で、人間の「尊厳」もなにもないのだ。
私は看護師に助けられ、ベッドから起こしてもらい、やっとポータブルトイレにすわり、用をたした。人間って弱いものだとそのときしみじみと思った。

人間は弱い、けれど、一方、神様は人間に「順応」という、特技もまた授けてくれているのかもしれない。
私はポータブルトイレにもすぐに慣れていった。

入院生活もかなり経つと、病院のさまざまな仕組みもかすかにわかってくるようになる。
看護師といってもさまざまなランクがあることや、看護が上手な人、心の痛みに寄り添ってくれる看護師、その一方、思いやりのない看護師もいることなど、さまざまなことが見えてくる。
そんな中に「助手さん」呼ばれる人がいた。普通の看護師は白いユニホームを着ているが、「助手さん」は薄いブルーの制服であった。看護は一切しないで、おもに、お茶やお水を持ってきてくれたり、配膳の仕事をしているようだった。丁寧な仕事振りで、無駄なことは言わないけれど、やさしい人柄であることはすぐに察せられた。

病室の中は一定の温度が保たれ、外の空気が初秋から中秋に変わっていることも私にはわからなかった。季節が移ろっていることは、時々テレビに映し出される草花で知るしかなかった。

ポータブルトイレに慣れたとはいっても、やはりかなり心の負担にはなっていた。とくに、大をした後の始末には閉口した。窓を開けて部屋の空気を入れ替えてもらっても匂いは完全には消えない。
病身には、外気を長い間いれるのは、それも耐えられなかった。季節は確実に進み、秋も半ばになっていて、外気はかなり冷たくなっていたのだ。
そんなとき、食事の時間になると、もう何重もの苦痛を背負うようだった。
あるとき、やはり運悪くまだ匂いの残るとき、食事の時間になった。
助手さんが食事を持って部屋に入ってきたとたん「あらっ」といった。
窓を開け、空気を入れ替えてもらい、私は惨めな思いで食事に箸を付けた。食べなければならない、体力を付けなければならないのだ。
そんな私を助手さんはちらっと眺め、「あとでまた来ますね」といってそのまま部屋を後にした。

翌日、ノックして部屋に入ってきた人を見て、私は一瞬誰かわからなかった。私服の助手さんが、にこにこと微笑みながら、新聞紙につつんだ何かを私に差し出した。
とたんにいい香りが匂い立った。木犀であった。
「家に咲いたんです。花瓶も持ってきましたよ」
そういって、助手さんはテーブルの上に花瓶を載せ、木犀を生けてくれた。
ふくよかな香りが部屋いっぱいに拡がった。
それは単に木犀の香りだけでなく、人の心のやさしさをも漂わせてくれる香りであった。私は、木犀の香りがこんなにも人の心を揺さぶる、すばらしい香りであったのかと、涙がこぼれるほどの感激をもって、花に顔を寄せた。

その後、私は順調に回復し、退院するまでになった。

助手さんと、あの木犀の香りは私の心にしみこんだ。
秋が来て、木犀が香るころになると、私はまた、あの「助手さん」を思い出すだろう。

春を告げる、梅の香りにつつまれて私は、昨年の秋の香り、木犀と助手さんをなつかしく思い出している。
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by mimishimizu3 | 2012-02-17 12:09 | エッセイ
2012年 01月 11日
鎮守の森
風もなく、穏やかな日であった。こういう日を冬晴れと呼ぶのだろうと思いつつ、私は午後、散歩をかねて近くの神社まで行った。
小さな神社は、この地域の守り神、後ろに森を背負い、まさに「鎮守の森」である。
私は暖かな日差しを浴びて、しばしそこに佇んだ。
この景色は昔、幼いころの私が見た景色と変わりはない。「鎮守の森」はどこにでもあった光景なのだ。
目を閉じた。
ふと少女たちの笑い声が聞こえたような気がした。この神社の境内で遊んでいるのだ。着ているものは貧しかったが、生き生きとした声があふれていた。
それは昔の私たちの姿であった。
その頃、近所の子どもたちは、学年が異なっても、よく一緒になって遊んだ。公園などない時代、遊び場所に困ることはなかったが、それでも広い神社の境内などが多かった。
私たちはよくゴムとびをした。輪ゴムを鎖のように2メートル近く結び、その両端を持つ人と、ゴムをとび超えるものにわかれ、ゴムをだんだんと高くしてゆく遊びである。

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私は、運動神経がなく、誰もが普通に飛び越えられる高さでもつまずき、飛び越えることができなかった。個人だけでするときはそれでもよかった。私だけが恥ずかしい思いをすればいいのだから・・・
でも二手に別れどちらの組がうまく飛べるかを競う段になると、私はみんなの邪魔者であった。私が入るとその組は必ず負けるとわかっていたからである。
遊び仲間のリーダー格は2年年上のS子ちゃんであった。

あるとき、あの時は何人ぐらいの仲間がいたのだろうか、7,8人はいたのだと思う、S子ちゃんがみなの前で我慢がならないというふうに邪険に私に言った。
「〇〇ちゃん(私のこと)、あんた帰り、もう遊んであげないよ、あんたが入ると負けるじゃん、いつもいつも負けるじゃん、あんたなんかいないほうがいいよ、帰り!」

私は黙って下を向いた。不思議に涙は出てこなかった。そういう言葉はいつか言われるかもしれないと心のどこかで思っていたのかもしれない。

私は皆からはなれ、神社の石段に座った。皆は私を無視してしばらくゴムとびをしていたが、やがてS子ちゃんが皆に言った。「かえっろう~面白くないじゃん・・・」
皆はいっせいに駆出しその場からいなくなった。

私は一人、ぽつんと神社の石段に座り続けた。
哀しみが徐々に私を覆ってきた。一人になると静かに涙がほほを伝った。
涙をぬぐうこともなく私はぼんやりと空を見上げた。いつの間にか夕焼けが空を染め始めていた。私はただ、夕焼けを見詰め続けた。
透明な哀しみが、白い結晶になって、心の底に静かに落ちてゆくようだった。
あたりが薄暗くなりかけて、私はやっと腰を上げた。家に帰らなければ・・・

私は立ち上がり、歩き出した。そのとき、ふと石段の隅にセーターが置いてあるのに気づいた。それはS子ちゃんが着ていたセーターだった。遊んでいるうち、暑くなって脱いでいったものだろう。
私はそのセーターを手に取った。S子ちゃんの家は私の家からそう遠くはない。届けなければ・・・・・そう思って手にしたセーターだったが、ふと私はそこで立ち止まった。
「あんたが入ると負けるじゃん、いつもいつも負けるじゃん、あんたなんかいないほうがいいよ、帰り!」と言う声がこだまのように私の頭に鳴り響いた。

結局、私はそのセーターをそこに置いたまま家に帰った。
幼いながら、私は自分の心の中に、黒い、邪悪な塊があるのを知った。
哀しみの白い結晶と、邪悪な黒い塊は、碁石の白と黒の石のようになって、私の心の中に沈殿していった。

その後、S子ちゃんとどんな関係が続いていったのか、不思議なことに記憶がまったくない。家も近かったのだから、その後も関係が途絶えることはなかったと思うが、私の思い出のページはそこまでしかないのだ。
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しかし・・・
人生とは時にまったく思いもかけないことが起こるものだ。

それから何十年立った頃だろう。私はふるさとを離れ、遠い、遠い地に住むようになっていた。
母が病気で入院したという知らせが入り、私は久しぶりにふるさとに帰ったことがあった。
母は、私がいたころにはなかった△△病院に入院しているというので、私は教えられたとおり、実家からはそう遠くない病院に行った。
ガラスを多用した、明るい清潔感あふれる病院であった。
玄関を入り、私はきょろきょろとあたりを見回した。病室にはどうやっていくのだろう・・・
そのとき「〇〇ちゃん」という声がした。私の名前であるけれど、私は自分のこととは思わず、案内表示を探していた。
「〇〇ちゃん!!」
いきなり肩をたたかれた。私はぎょっとして振り返った。
ブルーの制服を着て、三角巾を頭にかぶり、モップを持った掃除をする人が私を見てにこにこ笑っていた。
その人はさも懐かしそうに、「よく来たねえ・・・」といった。「オバサンが入院したと聞いたからあんたがくると思って待っていたんだよ」

私はきょとんとした。誰だろう、この人は・・・・
顔を見ても私には誰か思い出せなかった。人間違いだろう、私がそう思ったとき、その私の心を察したのかその人は行った。
「S子だよう、よくいっしょに遊んだじゃん、あたし、あんたをかわいがってあげたじゃん・・・」

そういわれ、私はその人の顔をもう一度まじまじと見た。そういわれれば、日焼けで黒くなり、しわも出てきた顔の中にも、昔のS子ちゃんの面影がどことなくあった。
私は混乱した。S子ちゃんとわかっても、昔の幼馴染にすぐには抱きつけない私がいた。「あんたをかわいがってあげたじゃん・・・・」その言葉に私は戸惑った。
S子ちゃんは私が困った顔をしているのを見ると、母のところに早く行きたいのに、自分が引き止めているとでも思ったのか、「オバサンの病室は☓☓号室だよ、はやく行ってやり」といった。

後から聞いた話によると、S子ちゃんは私の母にとてもよくしてくれたらしい。仕事が済むと、よく母の病室に来て「〇〇ちゃん」といって、私のことも懐かしそうに話していったとか・・・入院中の母はどれだけ慰められたか知れないといい、私にいい友達を持ったね、といった。
S子ちゃんは本当にやさしいいい人だったのだろう。あの時、私を否定する言葉を投げつけたのも、あまりにも私がゴムとびができず、いらいらしてしまったからついつい出てしまった言葉なのかもしれない。
しかし、言ったほうは忘れても、言われたほうは忘れることはなかなかできないものだ。

あの時感じた私の哀しみは本当の哀しみだったし、S子ちゃんが私を否定したことも事実なのだ。
そう思ったとき、私はふと、ずっと心の底にしまいこんできた碁石のような白い玉と黒い玉がすーと浮かび上がってくるような気がした。

そのときの母の病気はたいしたことなく、私は早々に福岡に戻ることにした。
帰る前、私はあの「鎮守の森」に行ってみた。
あたりの様子は私の子供のころとなんら変わっていなかった。
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私はすーと大きく息を吸うと今度は思いっきり大きく息を吐き出した。
吐き出した息の中に、私が心の底にしまいこんできた碁石のような白い玉と黒い玉があるような気がした。
二つの玉は風船のように風に乗り、「鎮守の森」に吸い込まれていった・・・
鎮守の森はその二つの玉をそっと抱え込んでくれ、私はやっと幼いときの自分から解放されたのを知った。

by mimishimizu3 | 2012-01-11 10:57 | エッセイ
2011年 12月 29日
年末にあたって   生と死をみつめて
今年もあとわずかとなりました。
この一年を振り返ってみると、3:11の東日本大災害があり、日本中の人々が、いやおうなく生と死を考えさせられた年でした。今年を表す漢字一字には「絆」という文字が選ばれたそうですが、2番目には「災」があがっていたとか。

個人的には、私にとって、この一年はまさに「災」の年でした。
このブログではカミングアウトしませんでしたが、2月には大きな怪我をして、3日間入院、手術。幸い、手術も成功し、怪我はまったく元通りに直ったのですが、8月ごろから、どうも体調が思わしくなく、病院にいったところ、さまざまなことがありましたが、結果的に、思いもかけない大きな病名が告げられました。着の身着のまま即入院、入院生活は45日間にも及びました。
息子たちが文字通り、飛んでやってきて、お母さんにはパソコンが必要と、個室であったことを幸い、家から私のパソコンを病室に持ち込み、無線ランでつないでくれました。
おかげで何とかブログも続けられ、入院生活の徒然も慰められました。
このブログを見ていてくださった方は、初秋から中秋にかけて、まさか私が病室からブログの更新をしていたとは思われなかったのではないでしょうか。

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「想定外」、まさかこの私が・・という思いもありました。が、しかし、自分でも驚くほど、私はその病名をすんなりと受け入れることができました。それは一つには、これまでの自分の人生を肯定していたからかもしれません。やりたいこともしました、行きたいところにも行きました。家族にも恵まれました。欲を言えば切りが在りませんが私は今までの自分の人生を、自分の身の丈にあった、幸せな人生だったと思っています。

今まで生きてきて、「死」ということはいつか自分にも来るとはわかっていても、どこかひとごとで、遠い先のこと、というのが本当のところでした。
しかし、病室の窓からぼんやり空行く雲を眺めるだけの生活は、いやが応にも「死」を考えさせられる毎日でした。
いつか来る「死」だれも免れない「死」
東日本大震災ではどれほどの人が、「死」に直面し、「死」を身近なこととして受け入れざるを得なかったのでしょう。人類史上、死ななかった人はいないのです。だれの上にも必ずくる「死」。私の上にも、いつか来る「死」
それはいつ、どういう形で現れるのかわかりません。わからないからこそ、不安であり、恐怖なのでしょう。

私の病気がこれからどう推移していくのかそれはわかりません。
ただ、私は病気と「闘う」という姿勢はとりたくないと思っています。
よく「闘病生活」といいますが、私は「闘う」のではなくなんとかうまく病気と「共生」していく方策を探したいと思っています。

「あなたが生きているということ、それだけで家族は幸せなのだよ」
退院した日、家族が私に言ってくれた言葉です。それは自分の命は自分ひとりのものではないのだ、ということを改めて思い知った言葉でもありました。

新しい写真はなかなか撮れませんが、古いものを引っ張り出してでも、このブログはなるべく多く更新していきたいと思っています。

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私のことをよくわかっていてくれる友人は3日間更新が滞ったとき、「なにかあった?・・・」と心配してくれました。すばらしい友人に恵まれたことをこころから感謝しました。
今は生きている証であり、いつかはきっと、生きてきた証となるであろうこのブログを、来年もまた見ていただけたらうれしゅうございます。

来年は、きっと「福」の年になるでしょう。朝の来ない夜はないのです。
「災い転じて福となる」ということわざもあります。
きっといい年、来年はきっと明るい、良いことのたくさんある年、今年流した涙の分だけ幸せがやってくる年、そう信じています!

どうかよいお年をお迎えください。
一年間の感謝を込めて・・・・

by mimishimizu3 | 2011-12-29 16:22 | エッセイ
2011年 12月 24日
クリスマスの思い出
今日はクリスマスイブ、日本列島は、クリスマス寒波に見舞われ、全国的に荒れた天気になるようです。
そんなイヴの夜を、皆様はいかがお過ごしでしょうか。

クリスマスイブ、といえば、私には忘れられない思い出があります。

高校1年の秋、クラスに一人の転校生がやってきました。
T子さんというその人は、都会の大きな高校から、公務員の父親の転勤で、私の通う、小さな高校に来たのです。学力も私たちより遥かに上だということはすぐにわかりました。でも、そんなことをひけらかすこともない人柄で、私は席も近かったこともあり、すぐに親しくなりました。
ある社会科の授業のときです。なにかのついでだったのでしょう。「原罪」という言葉が出てきました。私は始めて聞く言葉でした。教師が言いました。
「原罪、ってなにか知っている者、いるか・・」
誰も手を上げませんでした。
教師は数秒間、宙を見詰め、そして言いました。
「T子さん、あなたなら知っているよね」
それはあきらかに、この学校の生徒にはわからないだろうけれど、優秀な転校生なら知っている、ということを私たちに示しているようでした。
T子さんはまるでいやでたまらないように、ゆっくりとたちあがると、ぼそぼそっと、小さなつぶやくような声で答えました。
「人間が生まれながらに持っている罪、のことです」

そのとき、私は脳天をぶち抜かれたようにびっくりしたことを今でもありありと覚えています。
人間が生まれながらに持っている罪??なにそれ!!・・・私にも「罪」があるの・・生まれたということが「罪」なの?・・・それはそれまで、私の考える範疇にはまったくない発想でした。
その授業がそれ以上、どういう風に展開して行ったか、その記憶は定かではありません。ただ私の脳裏に「原罪」という言葉だけが鮮やかに記憶されたことだけは確かです。

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その年、クリスマスが近づいたとき、T子さんが私に言いました。
「うちで、クリスマスパーティをするんだけど〇〇ちゃん(私のこと)来ない?」
私は喜んでその招待を受けました。
招待されたのは、私のほか、あと3名でした。
リスマスイブの夜、その日も、風の強い、寒い日でした。
私たちは待ち合わせて夕方、T子さんの家に行きました。
小さな小さな、官舎でした。玄関を入るとすぐにいいにおいがしました。お母さんの手料理だとすぐにわかりました。
狭い部屋でしたが、手作りのクリスマスツリーが飾られ、星が輝いていました。私たちに下さるプレゼントも、きれいな手作りの箱に入って、飾られてありました。
お父さんは皆に賛美歌を渡し、お母さんのオルガン伴奏で、みなで賛美歌を歌いました。
私はそのときになって初めてT子さん一家がクリスチャンであったことを知りました。
お母さんの心のこもった料理もおいしく、それは、ささやかであっても暖かい、本当の和やかさに満ち溢れたクリスマスパーティでした。
外は風が吹き荒れ、帰りは難儀をしましたが心はホコホコと温かかったものです。

それから30年ほどして、同窓会の折にT子さんを囲み、あの時招待された数名が一同に会し、食事をしたことがあります。
みな、小さな官舎のクリスマスのことは良く覚えていて、話しは盛り上がりました。
誰にとっても青春の楽しい一ページだったのです。
そのとき、私はふと思いついて、「ほら、☓☓先生の授業で、《原罪》って出たことあるじゃないの、覚えている?」と聞いてみました。
しかし、誰もその授業のことは覚えていませんでした。
当のT子さんも「そんなことあったっけ・・」というばかりでした。

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「原罪」とは何なのか。私にはいまだによくわかりません。
広辞苑によれば「アダムが神命に背いて犯した人類最初の罪(旧約聖書 創世記) 人間はアダムの子孫として、生まれながらに原罪を負うとものと考えられる」とありますが、そんな説明を聞いても私にはピンときません。

それより、あの時「T子さん、あなたなら知っているよね」と、私たちを見下すように言った教師に私の心は傷つき、「原罪」という言葉とセットになって私の脳に収められてしまったのでしょう。

クリスマスイブ、楽しかった青春、傷つきやすかった青春、こもごもの思い出がよぎります。

今宵、クリスマスイブ、皆様の上にも、良いことがありますように・・・
メリー、メリー、クリスマス!

by mimishimizu3 | 2011-12-24 13:04 | エッセイ